Subscribe to me on YouTube

蔡李佛の歴史

 張炎(1824-1893年)は廣東省、新會縣の石咀村で生まれた。彼は幼少期に武術を学ぶことを志し、少林寺の僧であり南派拳術李家拳の達人である李友山からカンフーを学んでいた。張炎の両親は彼が幼少期に何者かに殺害され、以後彼の叔父である張昆の下で暮らすようになった。しかし、張昆は仕事のために町を離れなければならなくなり、張炎の先生である李友山の元生徒で旧友の陳享にお金を払い張炎を預けることにしたのであった。陳享は京梅郷と言う村の近くに住んでいて、カンフーの教官であった。

 陳享(1815―1875年)は新會縣の京梅郷で生まれた。彼は叔父で少林寺の共通の弟子でもある陳遠護からカンフーを学び始め、懸命に修行したおかげでかなりの腕前になっていた。ある日、陳享は別の先師がこの村に教えに来ることを耳にした。その先師とは李友山であった。陳享はこの新しい師の下で修行し、カンフーだけではなく少林寺にまつわる多くの故事や歴史なども学んだ。中でも、少林寺の崩壊から脱出した五人の南拳五祖の故事にとても興味を持ち、羅浮山の近くに住んでいた南拳五祖のうちの一人である蔡福禪師を見 つけだした。 陳 享はこの先師を探すために、彼の師匠達から許可をもらい、この僧を見つけてカンフーを教授してもらった。彼はカンフーの純粋な真髄を学ぶことのできる才能を発揮し、蔡家拳の先師である蔡福禪師の下で何年もの間、少林カンフーを学んだ。数年後、陳享は蔡福禪師の下から去り、江門市、順德縣の陳村で教練の教官として迎えられ、村民に自衛のためカンフーを教えることになった。彼は彼が習ったもの、そして彼自身が作った新しい体系を用いてそこに道場を開いた。

 張炎が叔父の紹介で陳享に出合った時、彼はカンフーを習いたいと願い出た。張炎はまだ若かったが、陳享の前の師である李友山の下で修行した経験があった。陳享は張炎の願いと彼の親しい同門生と会う喜びを感じていたが、彼にカンフーを教えることには問題があった。それは、陳村では教練指導官が村民以外の人間にカンフーを教えることが禁じられていたからだ。陳享にもこの規則が適用されたが、張炎を練習場での掃除や整頓などの雑用係として受け入れることにした。張炎はまだ12歳だったが修行したい願望は人一倍あり、彼はなるべくみんなの近くで働き、練習を盗み見続けたのであった。そして彼は毎日練習を見続けることで徐々に技を覚えていった。つまり張炎はひそかに技を盗み見ながら修行していたのであった。このことを知った陳享は激怒したが張炎は今まで技を見て盗んだことについて正直に話し許しを請うた。それから陳享は彼に何を学んだかを尋ねると、張炎は今までに練習したものを披露して見せた。その成果、そして張炎の大望に陳享は密かに彼を鍛え導くように心動かされた。そこで陳享は張炎を夜間に指導し、張炎も昼間の練習場で他の生徒からいじめられても、決してそのことを皆に明かすことはしなかった。それから五年の月日が流れ、張炎は陳享から全ての技を学び終えた。

 ある日、陳享はホールで練習している弟子達を残し出かけてった。弟子達は張炎がいつものように働いているのを見て、この部外者に恥をかかせてやろうと試合を強制したが張炎は断った。弟子達は張炎を臆病者だとののしり張炎が我慢できないくらいにまで侮辱し、とうとう張炎はこの挑戦を受けてしまった。結果、弟子達は叩きのめされ、彼らは無数のあざを作ってしまった。そのため張炎が密かに習っていたと言う秘密がばれてしまい、陳享が帰って来た時、村民以外にカンフーを教えたということで責められてしまった。村民達はこの門外不出の伝統を破ったことに激怒し、陳享に考える余地を与えることなく張炎を村の平和維持のため追放してしまった。しかし陳享は以前、蔡福禪師の下で修行していた時に、より技術の高い、ある別の先生の存在を知らされていた。陳享自身その先生を探す機会は得られなかったが、張炎にこそその機会を託そうと思い、張炎を青草僧の下で修行させるために紹介状と供に廣西の八排山にある閘建寺へ送った。青草僧は熟練された先師であり、少林寺の崩壊から免れた生き残りの一人でもあった。青草僧は至善禪師の下で九蓮山少林寺に新しい寺を建設しそこに一人で住んでいた。張炎は指示されるままに出発し、寺院で青草僧を見つけだし、弟子として受け入れてもらった。1841年から1849年までの8年間、張炎は殺人技である佛門掌を学んだ。青草僧は張炎に佛門掌の秘儀を全て授けた。そして医学の知識および反清復明の思想を張炎に教えた。月日が経つのは早く、張炎の修行は完了した。青草僧は洪門社会の一員であり彼自身も革命家であった。青草僧は張炎に「鴻勝」という名前を授けた。この名前は実は「洪の勝利」を意味しているのだが、「洪」の代わりに中国語では同じ発音である「鴻」を用いてその意味を隠した。そして寺を去るよう言い渡し、同士や愛国者に連絡を取り明の復活のため戦うように命じた。

 張鴻勝(張炎)は 太平天國革命に加わり革命戦争、そして革命家達の育成に残りの人生を捧げた。しかしその前に張鴻勝はまず京梅郷に戻った。そこでは陳享が暖かく張鴻勝を歓迎してくれた。この再会で張鴻勝は陳享から以前、世話をしてもらったことに感謝の意を表し、青草僧から学んだものを陳享に伝えた。そしてこの技術の交換の中で、新しい方法が見つかった。二人の先師によって分けられた技術体系、修行方法、それらはそれぞれ独自に発展して行った。彼らのカンフーには蔡福禪師の蔡家拳、李友山の李家拳、そして青草僧の佛門掌の3つの源流があることから、尊敬と敬意を表してこのカンフーの名称を「蔡李佛」と名付けた。張鴻勝は彼の道場「鴻勝舘」で教え、陳享は「洪聖舘」で教えた。これらは同じ源流を共有しているが、この2つの蔡李佛の道場のバランスがそれぞれの特徴、属性を独自に発展させていった。しかし常に少林寺のルーツに定着し、互いに近い存在を保ち続けているのは時代が流れても変わってはいないのである。

紀元前2497年~紀元前2398年の皇帝黄帝(ホアン・ダイ)

黃帝(こうてい)
レプリカコンパス
黄帝皇帝「ホアン・ダイ」

 黄帝は紀元前2450年に遡る最初の武術を編み出したことで知られている。黄帝は兵士軍団に蚩尤との「涿鹿(たくろく)の戦い」のために武術を教えた。そして黄帝は戦いを勝利におさめた。

 伝説によると黄帝の妻は中国の人々に蚕(かいこ)から絹を作る方法を教え、彼の年代記編者である倉頡が最初の漢字を編み出したといわれている。

 また、敵の視界を妨げるために霧を利用した蚩尤との戦いの中で、黄帝は不思議な羅針盤を造りだした。羅針盤のおかげで蚩尤の居場所がわかり、打ち負かすことができた。その羅針盤は実際は常に南を指した指針のついた乗り物であった。黄帝の多くの功績の中には、伝統的な中国薬「中醫」の発明の原理も含まれている。

關帝(クワン・ティー)?-220年

クワン将軍は、神の兄弟であり
ボディーガードでもありました
クワン将軍の馬の名前は
赤いウサギ と言う名前です
関羽 (かん う、Guan Yu)

 恐らく1、最も有名なものはジェネラルクワンティー で意味は聖人あるいは神です。クワン将軍は戦いの神として知られています。

 ジェネラルクワンは多く物を持っている事でも有名でその中でもクワントウという名前の刀があります 伝説によればジェネラルクワンは愛馬の赤い野うさぎに乗って三日三晩食事も水も取らないで王女を守りました英語でロスロバートによって書かれた本で読むことができます。ここをクリックするとルーオゴンザンによって英語で書かれた『三国志演義』の本の紹介が見れます。

菩提達磨(ぼだいだるま)(禅)527年

(ぼだいだるま)(禅)
菩提達磨(ぼだいだるま)

 南インド生まれのインド僧、菩提達磨(ぼだいだるま)は中国へ禅を伝え広めたことで有名である。「易筋經」と呼ばれる少林僧の気功法は少林カンフーと菩提達磨の関係、菩提達磨がアジア大陸中の武術へ多大な影響を及ぼしたことを明らかにするものである。

少林寺僧
 菩提達磨には多くの伝説があり、次の話しは最も有名なものの一つである。その伝説によると菩提達磨は始めに南中国を訪れたがそこに好感を得ることはできなかった。そして菩提達磨は北魏(推定527年)にて「無言での九年間の面壁座禅」をしたと言われる北中国河南省の崇山少林寺近くの洞窟を訪れた。

 この話しは他に三つの中国語で語られている。その中の一つによると九年間の面壁の内七年間寝ていたと言われ、それに菩提達磨自身が怒り、二度とそのようなことが起こらぬようまぶたを自ら切ったと言われている。伝説によると、彼のまぶたが地面に落ちてまず茶の木が育ち、その茶が禅の瞑想中に修行僧が起きているよう刺激したと言われている。

 他の伝説によると菩提達磨は九年間の面壁座禅の後直立のまま死去したと言われている。

 また、菩提達磨は古典「易筋經」を残して消えていったという伝説もある。日本の伝説によると菩提達磨の足は九年間の座禅の後萎縮したとあり、日本のダルマ人形に足がないのはそのためである。

 さらに伝説によると菩提達磨は少林寺を訪れ(推定527年)、僧達が毎日体を動かさずに書簡を書き写して時間を過ごし、過度に肉体状態が衰弱していたのを目にした。そこで菩提達磨は呼吸法、運動法、瞑想法を編み出した。小林僧は菩提達磨をTa-Moと呼んでいた。しかし、菩提達磨と彼の生き方についての伝説、物語は数多くあることは知っておくべきである。

質問を選んでください

質問: カンフーは何ですか?

 カンフーは中国の武道について記述するために使用される言葉です。武道用中国語の単語は武術です。カンフーという単語は「熱心な労働者」という使われ方をしています。それは「70年代」の初めから始まりました。それは従業者がどのように見られたか説明するために使用されました。ある日誰かが’あれを見て まるで工夫のようだといって釘付けになって見ていました。それがカンフーの語源です

 今日の単語、「カンフー」が世界中で有名になりました!

 カンフーは心および身体を強くすることのような訓練 武器なしの形、武器使用の形 の自己防衛手段など多様にわたっています

質問: そうすると、学生は、どんな種類のカリキュラム習うのでしょうか?

 すべての生徒は精力的に基礎プログラムを学びます すぐに生徒ははっきりと向上することを感じるでしょう 生徒は短い時間で高い基準の形を習得できるでしょう

質問: ランキングとベルトはどうですか?

 伝統的な中国のカンフーではベルトシステムを使用しません 彼らはサッシュ(帯)を着用します ベルトランキングシステムは日本のスポーツの柔道から来ています そして後日本と韓国の武術がすぐにランキングシステムを採用しました 生徒はクラスで綿の黒のサッシュ(帯)を着用します 黒の帯は下腹と背中の腰の部分を保護します

 生徒は何を学習し理解したかを一連のテストで確かめられるでしょう

質問: 「Sifu」は何を意味しますか?

 Sifuは、広東語で先生を意味します

Kobe Chinese Martial Arts Association is a family environment
Being a family is all about helping each other out.

クラブ信条

 Provided by Hung-Sing Guan San Francisco, CA USA

  1. I will honor and obey my Sifu.
  2. I will train hard.
  3. I will respect my fellow classmates.
  4. I will eat healthy.
  5. I will not bring dishonor or negative attention to my school and my Sifu.
  6. I will not misuse drugs or alcohol.
  7. I will not bully anyone weaker than myself or misuse my gung fu in any way.
  8. I will obey all laws of the land.
  9. I will protect those that cannot defend themselves.
  10. My main purpose of learning martial arts is to build a strong body, mind, and spirit, as well as to be able to protect myself from harm.

"The 10 Rules of Good Conduct"

 Provided by Hung-Sing Guan Fut-San, China

  1. Seek approval of your Sifu for all things relative to the school, style, and branch.
  2. Develop strength thru endurance.
  3. Practice hard daily.
  4. Practice your "Chi-Gong" "breathing techniques" daily.
  5. Always do your best.
  6. Make sounds "Yik for punches", "Wah for tiger claws" and "Tik for kicks".
  7. Sex in moderation (modified from Buddhist philosophy that says avoid altogether).
  8. Stand up for yourself. Never back down, "unless it's to your advantage".
  9. Always eat a healthy diet.
  10. Through practice, never allow yourself to be bullied. Always remain self-confident.